わけししょうのルーツというか、発生元についてをおしらせします。
言い伝えなければ、失伝していまいますので。よろしくお願いします。
だれも漏れなく、だれかの子
わけししょうが若かりし大学生のおりに、知人から何度か言われたものです。わけの母親に対して
「どうやったら、こんなに息子さん(わけししょうのことね)がしっかりするんですか?」
それを聞いたわけ母はポカンとした表情で
「いやいや、なにもしていないし、子育てはうまくできてません」
的な発言をしてました。
これに関してはあまりわけししょう自身が評価しにくいのではありますが、結果オーライといったところでしょうか。
当事者としては、うつを発症した母親から虐待的な目に遭ったことも間違いないし、ある意味で母親の価値観を押し付けられて呑み込んだことも認められるところであります。後年、本人は後悔していた発言もありました。まあ、息子はこういう風に育ちましたので、感謝しかありません。
わけししょうの誕生はこの人たちからよ
ここではわけししょう出現の素となる父母について語るのであります。
なにはなくとも、両親が
そんな時代もあったねと~
今となっては、昭和レトロなどと評されていますが。
いろんな意味で濃ゆい時期だったと思います。
最も多くの人が逝った 昭和の時代
わけししょうの両親は昭和10年代の出生です。(太平洋戦争)戦中生まれです。
昭和20年までは戦争の時期です。
わけししょうが軽く総括できるわけもありません。あまりにも惨劇悲劇としか言いようがない残酷が世界の人たちを襲ったのです。
そんな厳しい時代にわけししょうの親は生まれたのです。物心ついたときは、憲兵特攻玉砕の真っ只中だったのです。
小学生だった彼らたちにはどう映ったのでしょうか。
わけししょうだったらどうだったでしょうか。軍国少年だったかなあ・・・・・
わけししょうパパ周りはこんな感じ
親父からは戦争についての話は聞いたことがありません。奈良の田舎に住んでいたこともあり、空襲とかもなかったじゃないかなあ。
親父のよもやま話としては、夜に出歩くのが怖かったと言ってましたね。
当然、灯りなんてありません。真っ暗な中を恐る恐る歩くのだそうです。そうすると足が地面にズボっと突っ込んでしまうところがあるそうな。
当時は土葬で遺体を埋めていたとのことで、その上を踏みしめると足がハマるんですと。
まあ、実際にあったかどうかはわかりませんが、幼少な頃には最も身近な恐怖だったようです。
奈良って、昔の言い方では大和っていうんですよ。
戦争で大和って、なにか判りますよね。
そう、連合艦隊旗艦の戦艦大和でしょ。
日本海軍は地方の名前とか河川などの名前を艦船につけました。それはイコール、それぞれご当地から招集した兵士を搭乗させ、士気を高める効果を狙ったといわれています。
「赤城」「加賀」などは航空母艦。
「榛名」「伊勢」「長門」「陸奥」「武蔵」などは戦艦。
「最上」「阿武隈」などは巡洋艦。河川の名前を冠しています。
親父から聞いた話では、わけししょうの親父の親父、つまりおじいちゃんは農民で招集されなかったんだけど、じいちゃんの兄弟は招集されて、戦艦大和に乗り組み、海の藻屑になったのこと。
巨艦大砲主義の犠牲だよね。誰が言ってるのか知らないけど、日本史上における3大糞バカ公共事業の1つなんだってねえ。つまり、費用対効果/コストパフォーマンスが最悪ってことです。
なにしろ、敵の輸送艦しか倒せなかったんだってらしいね。最期は片道分の燃料だけを積んで特攻をかけたなんて、兵法的には末期的としかいえません。
ちなみに戦争が終わってからは、食料・物資が絶望的に不足していたため、農民はまだマシだったような話をしてました。農産品をお礼に住宅地の人糞を回収してまわったそうです。肥料として使うためです。
とは言え、わけ親父は百姓だけは絶対いやだといってましたね。土いじりも好きじゃなかったですね。子どもの頃の手伝いがそうとう過酷だったようです。
わけししょうママ周りはこんな感じ
わけししょうお袋は九州は長崎島原で生まれ育ちました。これまた日本の片田舎。
海辺の町は貧しいながらも豊富な海の幸を遊びと共に楽しんでいたようです。
なにしろ、オニオコゼは胃袋が一番おいしいとか言ってましたからね。そこかい! って感じですね。夏は日中ずっと海に浸かってたそうです。
わけししょうも幼少のみぎりには、じいさんばあさんが健在で、夏休みには遊びにいってました。
ホントに珠玉の思い出ばかり。おばあちゃん宅から海まで徒歩20秒。有明海遠浅の砂浜、いろんなものが捕れたねえ。貝類、うなぎに蛸、ワタリガニとか。もう今はいないだろうね。
母方のじいさんは大工で、これまた召集令状がこなかったみたい。
長崎と言えば。
そう、原子爆弾が投下された地球上に2カ所しかないうちの1つです。
お袋は外にいたらしく、もの凄い閃光がさく裂し、キノコ雲を見たそうです。それから何日か経過して、大八車に載せられた多くの死体を観たと言ってました。
そんな戦争体験を過ごした両親から産まれたのがわけししょうです。やはり、そんな話を聴いてなんらかの影響が人生にあったかもしれませんね。
麺つながりな2人
まあ、どうでもいいというか、偶然です。
2人の出身地はどちらもそうめんの産地として名を馳せています。
奈良県桜井と長崎県島原。三輪そうめんと島原そうめん。
戦後復興の流れに乗って
貧しいからこそ豊かになれる
戦争の目的は経済的な利権を獲得するためなのであれば、現代においては領土拡張や植民地獲得は必要なくなっています。グローバル経済は基本的に流血がない戦争ともいえます。
日本は敗戦したのですが、その後の復活劇は完全にアメリカに敗北させたと考えます。
第二次世界大戦後は、世界中でベビーブームが巻き起こり、日本も例外ではありませんでした。いわゆる「団塊の世代」の登場となります。
人の数が経済の原動力となるのは必然です。貧しくてもなんでもいいんです。飢えと貧困の克服が戦後日本の最重要課題だといえました。
煩悩とは悟り
仏教の経文にもあるように、世にある成功法則にあるように、欲が大事だと。
「欲しがりません、勝つまでは」ってチャッチで戦争に勤しんでいたのが戦争終了で吹っ飛んでしまいました。
それからは食欲・性欲・金銭欲・所有欲・知識欲など煩悩丸出しの時代です。
やなせたかし翁がなぜ食べ物を登場人物? とした物語を展開したか。
それは食べ物をお腹いっぱい食べたい、との祈りにも近い願望は出発点としていたのこと。
現代の子どもたちに届くメッセージではないかもしれません。
stay hungry とは某バンドの楽曲ですが、日本中がそんな状態だったのです。
商機はここにあり!
わけししょうの中での理解ではありますが、小さな商いが成立するマーケットは成長できると。その頃はマッチ売りの少女が日本中で大量発生したといえます。片手に持てるだけの商品を売り歩くことさえできたのです。
わけししょうの親もいくつかの商材を替えながら販売業に従事してました。
そして、大阪の仏具販売メーカーで出会うのでありました。
これまた、わけししょうの知り合いになぜかバカ受けしたのです。
「オレの親って職場結婚なんだよね」
ゲラゲラ笑われましたねえ。
そして松山という未踏の地に
両親は結婚して大阪塚本に居を構え、同じ仏具店で働いていたのです。その地にてわけししょうが誕生したのです。
そう。わけししょう、実は大阪製なのです。
その後、会社の方針として四国進出が決定され、わけ両親が任務に就くことになったのです。
2人とも縁もゆかりもない愛媛松山の地を踏むことになりました。わけししょう2歳のみぎりです。
ここにわけししょうの出身地となる松山での生活が始まったのであります。
自身の振り返りとなりました
さて、そんなわけでわけししょうの生まれの周囲を語ってみました。いかがだったでしょうか。
よく言う、文字に起こすと認識しやすくなる、客観的に振り返ることができる、と。
さらに続いてわけししょうの父親と母親について述べてみたいと思います。
わけししょうでした。ありがとうございました。