わけししょうにとっての、いいおんなが少数います。片手で足ります。そのうちの1人が中島みゆきです。(敬称略)
小学生時代から聴いていた「オールナイトニッポン」月曜日。
わけししょうのテーマソング「ファイト!」の誕生元となった、投書を読んだ回もリアルで聴いてた。
闘う君の唄を 闘わない奴らが笑うだろう
心意の伝承者として、生きるとは闘うことから逃れられないと思っています。
ということで、笑って闘うわけししょうの詩をどうぞ。
伝統の重みを感じてほしいなあ
他人のことなど、知ったことじゃあねえ。
そう、きれいごとだけでは生きていけません。
いまを生きる我々は、今この瞬間に総てを意識すればよろしい。
しかし、伝統武術を掌る者はそうではありません。そうであってはなりません。そうなってほしくないなあ。
「守護神」という定義は定かではありません。その表現が正しいか、それも判りません。イメージ的には、ジョジョでいう「スタンド」とも似てるような気もする。あなたに寄り添っています。見えないけどね。そして、大いなる力をもたらしているのです。
仏教などの東洋宗教観では、ご先祖さまを回向します。分かりやすくいえば、会ったこともないご先祖に感謝します、ってこと。アジア的思想は武術の成り立ちに大いにリンクしています。胡散臭いですか? スピリチュアル的ですかねえ?
でもね。貴方が繰り出す技には、これまで伝承を支えてきた遣い手たちとは無関係ではありません。
先達方が紡いできたんだ。命懸けでね。縁もゆかりもあるって感じてほしいなあ。感じることが難しいなら、勉強してください。記述を追ったり、動画を視てください。
そして、練功するときにイメージしながら動きましょう。世界的に流行ってるマインドフルネスです。和気師匠の系統はジッとしていない動功が売りです。さらなるマインドフルネス的な効果も期待できます。
注意としては、劇的な表現を伴う結果論を盲信しないことです。ときめくんだけどね。
「軽く突いただけで、相手が死んだ」
「触っただけで、相手が吹っ飛んだ」
「誰一人もかなわなかった」
武術家先達をディスるわけではありませんが、中国はその手の盛り盛りが大いにありえます。伝統的に煽りキャッチコピーがお上手です。お気をつけ下さい。
繰り返し申し述べていますが、武術で重要なのは劇的な結果を生み出すプロセスなのです。結果を欲するのではなく、結果を期待できる過程を学び実践するのです。
権利と義務じゃぁないんだけど
栄光はかみしめていい、権利
ご自身が羨望した技を得る喜びは、何にも代えがたいものです。そのときは全然わからなくても、なんかすごいんだろうなあ、って思うのであります。時空を超えて、その身に宿した動きはあなたの何かを変える力を有していることを信じてください。
そして、最大限に敬意を表して賞賛しましょう。大切に愛しましょう。
わけししょう、たまに言うんですけど。
戴魁~王映海~わけししょう系統の心意拳の技って、そうとう奥深い。どうやって編み出したの? どうやったら考えつくの?って感嘆してしまいます。スルメじゃないけど、噛めば噛むほどってやつですね。これも武術を実践する大いなる楽しみです。
無責任でいいのか、義務はないのか
ジャイアンの「お前の物は俺の物、俺のものは俺のもの」理論は、後々のリスクを考えない、美味しいどこ取りってことです。
わけししょうが考えるに、個人的に楽しむにとどまるのであれば問題はありません。それはそれで楽しいですからね。お月謝を払って習っているなら、全然。
人を集めて、伝承者を名乗るのであれば、話は違ってきます。どうしても責任が伴ってきます。責任というか、期待といってもいい。
心意の意地を自ら語り表現(実践)し、関わる人に価値を伝えることです。
そこには潔い伝承者の自覚と更なる高みを目指す向上心、万が一の事態には心意の骨頂を現すことに躊躇しない勇気が必要です。
その期待に応えようとしない、責任から逃げようとするのは、先に述べた先達たちが命懸けでつないできた伝統を蔑(ないがし)ろにすることであり、師匠の面に泥を塗ることになります。
わけししょうはちょっとだけ危惧しています。王映海の系統にいて、伝承する側にいて、胡坐をかいてる状態にあるだけの、心意拳踊りに終始していないか。もちろん、自戒も含めてです。
門派を問わずですが、論外なのは「使えない技をあたかも使えるように伝播する輩」です。まあ、これは置いときます。なにしろ、本人や生徒さんに自覚がありませんからね。
武術家的意地
わけししょうは「心意拳」ってのをやってます。
何度も言いますが、心意気(こころいき)の武術です。ここを外してはならない、と伝承者として強く強く強調しておきます。
こんなエピソードがあります。
わけししょうの父親はガンを患い、その先は完全にみえてた段階でした。あえて開腹してオペをしましたが、食道と小腸をつなぐバイパス手術でした。
その翌日に、わけしょうは中国に向けて旅立ちました。日本人を何人も連れだって、師である王映海の元へ。あらかじめ決まってた予定だったのですがね。
王に父親のことを話したのです。すると王は深い表情をして椅子から立ち上がり、この動作を教えよと言ったのです。その心意の動作は慢練であり、王がこよなく愛していたことはよく知ってました。
さあ、どう受け取るべきか。
そのときの王の振る舞いは、まさに背後に心意歴代の伝承者を従えた、心意の意地です。
武術は方法でしかありません。目的を達成するための手段です。客観的に考察すれば、死期を迎えた病人に健康法を実践しなさい、とはならない。しかし、思いと願いを表現する方法として、武術家として振舞ったのです。
わけししょうは、まだまだ修行が足りませんでした。師父の武術家としての心意気を汲むには時間がかかったのであります。
堅苦しく考えなくていい
武術を軽く考えんな、と言ってはおりますが、わけししょうの私生活は知っての通り、酒をかっ喰らって食べることにこだわり、バカな話で盛り上げり、ロックンロールを生きています。いい気にさせてくれる人に囲まれて、仕事と遊びの境も非常に薄い。
そう、武術は手段です。
何を得るための手段なのか。こそが肝心です。
とは言え、師匠は教えてくれません。自身での、習得ではなく会得です。
わけししょうが考える武術修得のコツの最重要事項ですね。
禅問答みたいですがね。そうなっちゃうんだろうなあ。
言い換えると、自立&自律ってことになるんです。この世を楽しく生きていくための。
師匠は伝えてくれるけど、教えてはくれない。わけししょうが思うに、師は道を示してはくれません。このへんが武術は宗教的ではあっても、宗教ではないことを示唆しています。
看板を掲げるけど、勘違いしない
武術を修めるにはバランス感覚がいろんな軸で必要になります。これがまあ、面倒くさいというか、センスが問われるというか。
わけししょうは、自他ともに勘違いする可能性あるのでないかと思っています。
それは、お前が偉いんではなくて、お前がやってる武術が凄いんだということ、です。
ん? どういうこと?
大企業であったり、国家権力であったり、所属している組織の名の下で、でビジネス&お仕事している方も大勢いらっしゃるじゃないですか。
名刺出してさ。言われるんだよ。
「ほう、○○会社/××省の方ですか」
優遇してもらえるんだよね。特権といってもいいような。なにをするにも余裕さえあるのです。わけししょうもその味を知っています。チヤホヤしてもらえるんだよねえ。
そして、錯覚しまうのです。俺はエライって。でも、それは貴方が属している組織に権威があるのであって、あなたが凄いんじゃないですよっていう事実があるのです。
大手企業に勤めていて、それなりの成果を出しておりました。その後に退職。
オレはやれるんだから⇒零細同業に転職⇒まったく成績が出ない⇒詰む
わけししょうも幾度となく見てきたパターンです。当人も言ってましたが、ものの見事に相手にされないそうです。いかに所属していた組織のご威光が大きかったか思い知らされるのでした。
翻って、武術を教えてる者として考えると、同じ現象だと断言できます。
そう、伝承者の人格が偉いのではなく、伝承している技術が尊ばれているのです。
仏教では「仏法僧」ってのが説かれます。「三宝」とも言われます。「仏」は作った人、「法」は教え全体、「僧」は受け継ぎ伝える人。
僧が尊敬されるのは、法を伝えることに由来しているのであって、僧の人格が先にはきません。
わけししょうは「和気入道」と称していた時期もありました。修行者であることの現れでした。その後に、法/道を伝える者としての自覚を深めて、「ししょう」と称したのです。法を説く者であって、法を創った者ではありません。
破天荒でロックンロールな伝承者を標榜しています。 おもしろけりゃあ、いいんだよ。痛いの嫌いだし。練習はもっと嫌い。カツラをかぶってキャバクラに高級車で繰り出す破戒僧のノリか?
伝承を受け継いでほしいなあ
鉄のわらじを履いている気分のわけししょうなのです。
こちらの都合を一方的に押し付けるつもりはございません。お楽しみがてら、心意拳の真髄に触れることができる人を希望しております。ロックでもmetalでもルンバでもドドンパでもいい、心酔して踊れる奴よ、来いや!って感じです。
てなわけで、心意を欲してる物好きに心から逢いたいと思っているわけししょうでした。
Thanks.
ちなみに本稿のタイトルは、中島みゆきのオールナイトニッポン名物コーナー「家族の肖像」のパクリです。