ようこそ。わけししょうです。
楽園とか極楽とか天国って、ありますか?
ホントにあります、あります。いまあるここです。
生き地獄と思ってる人もいるでしょう。でもね…………………
我々は現在地点で楽しくやっていくようにできてるんです。
このような人に沁みるよう綴ってみます。よろしくお願いいたします。
- お金も大事だが、もっと大切なことがあると思いたい人
- 人生を渡っていくのに魂の武装をしたいと考えている人
- 今の暮らしを考えたときに、もう少しの刺激を欲している人
- 数百年の時間を、海を越えた空間を、一身に感じたい想いに駆られた人
- 宗教は苦手だが、拠りどころになる大きな流れが欲しい人
- ナポレオンヒルがいうとこのマスターマインドに交わりたい人
わけししょうは心意拳という中国の武術を受け継ぎ表現しています。
わけししょうが提唱する「武楽」
ようこそを ふたたび、わけししょうです。
音を楽しむのが「音楽」であります。ならば、武を楽しむのが「武楽」であると。故に「ぶがく」と読みたい。中国語読みでは wuyue でいきたい、と。
どうしてこんなことを提唱するのか?
それは、わけししょうがやっている武術が面白くて楽しくてたまらないから。
そして、他の人にも味わってほしいのです。
武術の実践の楽しさとは?
わけししょう、武術を教授する機会にずっと皆様に問いかけておりました。
「どうして武術をやりたいと思ったんですか?」と。
しかし、明確なお答えがかえってくることはほとんどありません。
まあ、先にわけししょうが述べたように、楽しいからですとはなかなか言いにくいでしょう。
ここで、武術を楽しむ理由をわけししょうなりに挙げてみたいと思います。
男子脳が欲する「強さ」
平時であっても男子は暴力的な強さに憧れます。これは生物としての本能というか、オスの性(さが)とでもいうべきものです。もちろん、女性でもオッケーですよ。
特撮ヒーローや人型ロボット、解りやすい悪(世界征服のために幼稚園襲撃)と戦う構図。
違う角度でいえば、声には出せなくてもいじめはよくないという思いとか。
健全な発達にも必要な要素といえます。暴力や性については規制されるべきではあるのですが、しかるべきコントロール下にあるならば、非常に有用性が高いことになります。というか、生きる力に直結しています。
ちと脱線します。ナポレオンヒル著作の「悪魔を出し抜け」に、性は本来、忌み嫌うものではない、人間がそういうものに貶めたのだ、的な一節がありました。暴力についても同様かもしれません。
誤解を恐れず言えば、子どもの頃の「ごっこ遊び」が大人版にアップグレードしたのが、武楽の実践であると。ちなみにごっこ遊びを英語で言うとロールプレイです。さらにシミュレーションを練拳という名のもとでひたすら繰り返します。
コントロールできない凶暴性、女の子(年齢を問わない)を泣かすようなマネはいけません。
刑事事件に至っては、ほぼほぼ転落人生と相成ります。わけししょう、人間の良心の呵責というのは意外と後を引くと思ってます。お気をつけください。若気の至りは人生を不幸にします。
長い歴史が育んだ「合理性」
ここでは、わけししょうが受け継いでいる「心意拳」に関しては、と予め限定してお話します。
武術は「体はんぶん、頭はんぶん」です。いわゆる「型」を表現する身体運動ではあるのですが、頭脳を駆使するのです。まさに頭と体の体操なのです。
特に相手がいるという前提、技法の使用法・展開などが味わい深い。よく考えたものだと感心することが多いのです。
古(いにしえ)の中国で、編み出された身体操法に酔うといってもいいでしょう。呑めない人には恐縮ですが、年代物のお酒みたいなものです。
現代社会では基本的に普及することはないですが、深遠な広がりを単純な動きの中に感じることができます。
身体を動かす「爽快感」
酸化という現象を我々はやってます。呼吸しかり、活動したり、食事しかり、老化しかり。
鍛えと衰えはセットです。表現が未熟で恐縮ですが、そのバランスをとることがより良く生きるコツです。
まあ、適度な運動は心身にいいですよ、ってことです。
しかも、健全で安全な暴力行為はストレス解消法としての効果が高いのです。
中国武術もしくはそれを起源とした空手道については、独りで稽古ができるという大きな利点があります。日本武術の多くは組稽古を基本としており、大きな違いです。相手をケガさせたり、自身が傷む可能性が低いということです。
心と体を緩める「リラックス」
さてさて、唐突に生きるための極意を授けましょう。それは心身のリラックスです。
心持ちもフラットにして、身体の力を抜くことです。
驚かれるかもしれませんが、武術では力を抜いて力を出すことを第一とします。
ん? どういうこと?
解剖学的には伸筋と屈筋、速筋と遅筋の使い分けです。武術はそれぞれ前者を主とします。
そして、これが意外と難しい。その習得に時間をかけます。
宗教の代替となる「大きな流れ」
天下泰平では武術なんぞ役には立たない、さらにいえば、戦時においても役に立ちません。
わけししょうは武術の系統性を重視します。言い換えれば武術のブランディングと言ってもいいかもしれません。
今ここにある心意拳は、中国山西省祁県の戴一族が編成し、代々の伝承者が外伝させず頑なに守り、時代の激流が最後の戴から王映海に伝わり、文化と民族の壁を打ち砕き国の境を越え、存在しているのであります。
現代日本人は宗教が苦手というか、無宗教を称しています。わけししょうは哲学としての宗教は必要と思っています。特定の宗派というだけではありません。ただ、宗教活動とは同一視しません。太古の昔から現代にいたるまで、人間は宗教に翻弄され悲劇を繰り返しています。
現代に至っての宗教は音楽であったり、ブランドであったり、SNSだったりします。心酔するミュージシャン、applecomputerやNikeなどがわかりやすいでしょうか。それらの大きな流れの中に自我を置いて、触れることに生きる喜びを感じるのです。
かくして、武楽では崇高かどうかは別として、武術は宗教の代替品となりえます。とはいえ、不幸をひっくり返す奇跡を期待するものではありません。すがれるものではないです。
まあ、ちょっと考えてみれば、武術の実践では癒しと健康に益があり、課題の解決に利する勇気と考え方を学びます。これらは現代版の宗教代替品よりは宗教っぽいかもしれませんねえ。
武術伝承の極意はコミュニケーション
人間関係の不全が人間不幸の原因であると言い切る心理学者もいるようです。苦手な方もいらっしゃるでしょう。
武術伝承は健全な人間関係の構築によって作用します。
武楽ではお互いを尊重し、武術を共有する行為でできあがっています。
我々は最終的には孤独ですが、人と関わることで多くを得ます。
わけししょうは個人的に、なにかが成就するときは人との関わりを強く感じます。誰かが意図せずともなにかを助けてくれたりすると思っています。「運」は神ではなく人が運んでくれるものです。
コミュニケーション力を鍛えることもできるでしょう。前からいうように、武術を用いるやりとりもコミュニケーションなのです。
わけししょうが実践する武楽
では具体的にわけししょう、武楽をどこでどうやっているのか?
その答えはズバリ 和気功夫として愛媛県松山市和気海岸でおこなっています。
なんか学習塾か会社のイベントみたいですが、呑みだの喰いだのをメンバーでやってます。強制ではありません。楽しくできているのではないかなあ、と思います。
不定期ではありますが、愛知県名古屋市でclub XINYIなるイベントも開催しております。
詳細についてはお問い合わせ欄からお尋ねください。
We want you! 君も参加しないか?
わけししょうとしては、気の置けない仲間を募集しているのが正直なところです。ビジネスとしてやっているつもりはありません。武術の実践にはコストと時間がかかりますが。
武術は現実社会では役には立ちにくいものですが、述べてきたように人が生きていくうえでは可能性を秘めていると信じています。
なにかピンときた! 方はぜひともアクセスください。
ご連絡、お待ちしています
さみしがり屋のわけししょうです。なんらかのご連絡を喜びます。それでは。ありがとう。