お世話になっております。わけししょうがお話させていただきます。
賛否はあるかもしれませんが、武術を修めるのは一種の自己投資といえます。ピンときますか?
この記事は以下のような方に読んでいただき、参考にしていただければ幸いです。
- 武術をやってみたいと考えている、これからの人
- 武術をどのような感じでやっていけばいいのかやや迷いがある、現在進行形の愛好者
- 教室や伝授をどのように展開していけばいいのか若干の不安がある、教える側にある人
- 武術を学術的/体系的に研究している、偉い人
結論から申し上げますと、どうやっても間違いではないということになります。どう習おうが、どういう風に教えてもらおうが、好きに練習しようが、どのように教えようとも………………… 愛好している人の数だけやり方があります。
んじゃ、ここでなにを言いたいのか?
実践しているプレイヤーは鵜の目で武術を追いかけます。そう、目前にある動き/教えに一生懸命です。ここでは、鷹の眼で武術を身につけるプロセスを見てみよう、という試みです。
高い視座から観ることです。永い時間をかけてお金を遣って、自身にとって価値ある武術ライフを送ることができるかもしれません。
武術を身につける各プロセスごとのコツ
それでは各プロセス別を見ていきましょう。
習得(input)
武術を身につける、最も初めにくるプロセスです。
正確には、前段にリサーチと選択があります。つまり、何を誰から習うか、というプロセスです。これは非常にセンシティブなので、ここでは扱いません。別枠でお話させていただきます。
さて、習うということは通常、先生/師匠/先輩から、ということになります。書物、動画、通信講座などの非人格からの独習もありえますが、ここでは触れません。
最も心躍る段階です。画像や動画で見たことはあっとしても、実際に自身の身体を動かし、憧れの門派に入門するのです。
畏敬と興奮、期待と不安・緊張が入り混じり、やったことがない基本功に悪戦苦闘することになります。ワクワクがとまらない! ってやつです。
まあ、心情としては、異性との初めてのデートみたいなもんでしょうかね。
習う際のコツはいろいろあるんですが、まずはマインドセットから。
そのドキドキを決して忘れてはなりません。まさに初心。
わけししょうのところで最も長いキャリをお持ちの吾人がいらっしゃいますが、彼は「永遠の初心者」と自らを称しています。「またまた、ご謙遜を」とこちらも周りも言うのですが。体現できる技が未熟という次元ではなく、初めて習うときを思い起こしているということです。
心意気として、我々は永遠の「初心」者であるべきです。教える立場になろうとも、伝人となろうともです。
修得
俗にいう「練習」のプロセスです。
わけししょうが「Twitter de ○○いさお(功夫)に参加しませんか」という記事をあげています。
これには大きな理由がありまして、実はわけししょう……………
練習が嫌いです。
なので、ちょっとは練習するようになるかなあ、と甘い考えからの着想だったのですが、うまくいってません。今後の課題です。告白懺悔はこれくらいにしておきまして。
教授している際によく出る質問として
「どれくらい練習すればいいんでしょうか?」
という類いのがあります。これに対してわけししょうは
「しなくていいですよ」
「へ?」みたいな怪訝な反応があります。そりゃあそうよね。わけししょうは続いて
「練習はしなくてもかまいません。できるようになればいいです。できないなら練習してもかまいません」
今となってはえらく傍若無人な言い方で、当時はたいへん失礼いたしました。
その頃の語彙力では、そのように表現するのが精一杯のわけししょうでした。
今ならちょっと違った表現で言ってみます。武術修得のコツはズバリ
思考停止にならず、自身の中でtry&errorを繰り返して技を練習すること
です。「量より質」ともいえるのですが、残念ながら相当量をこなす必要はあります、実は。
上記の質問の次に多いのが、
「これでいいんですか」と動作表現の確認を求めてくるヤツです。それに対して、わけししょうはもっぱら言います。
「いいけど、だめ」と。
これもオッケーをもらえらば、それでいいんだという思考停止に陥る、上達の対極です。
動きの形式としては間違いではないが、練度はぜんぜんあきまへん。上達するためにはまさに鉄棒を研いで縫い針にするが如きです。まあ、たいへん。
さらにわけししょうは言います。
「自分との対話をしましょう」と。
わけししょうがやっている心意拳には「内三合」「外三合」という技法の要訣があります。
詳しくは割愛しますが、心と体の状態や使い方を自身で確認調整することですね。
表現(outputその1)
武術は脳内では完結しません、当たり前。表現することができないと意味がない。
誰かの人前でお見せする段階です。師匠に動作確認をしてもらうことが多いですかね。
中国武術でいう「表演」、日本武術でいう「演武」というニュアンスとはちょっと違います。カッコよく見せるのも大事ですが、実際に相手が目前に立って、どんだけ動けるか? が大事です。
荒れるので詳細はご勘弁ですが、武術を殺陣(たて)として表現している先生方も多くいらっしゃいます。功夫映画ならいざ知らず、見ているこっちが恥ずかしくなります。
あってはならないのですが、実際に技を炸裂させるのも、このフェーズです。
教授(outputその2)
習得の対極です。
「教えることは教わること」という原則があります。つまり、生徒に教えることによって、教える先生の功が深まるということです。これが究極の修得法です。わけししょうもこれを推奨しています。もちろん、ある程度の練度が積みあがったフェーズに至った後のことです。
まあまあな客観性、言語等による伝達、コミュニケーションなど、主観的/独り善がりでは成立しないのです。
師匠業の難しいところです。基本的にはすでにマウントがとれてますから、ほぼほぼ教授する側が優位といえます。しかし、それにあぐらをかいてると恐ろしい目に合うかもしれません。
扱うのはあくまでも武術であって、集まってくる人は愛好希望としても、隙を見せてはなりませぬ。流派の意地を示すことが必要です。こけて個人的に恥をかくくらいなら問題ないかもしれませんが、門派や師匠筋に泥を塗るような事態になってはいけません。
「いいですか。右拳で打ってきなさい」とか「手首を握りなさい。力を入れて」とかは絶対やめましょう。
お問い合わせください
とは言え、ここで述べていることは、なかなか一筋縄ではいかない、というか解りにくいもほどがあります。
気になる方はお問い合わせ欄からお尋ねください。できる限りのレスポンスはお返しします。見当違いは放置します。
理解できたと思われた方は、思考停止になっていないか疑ってください。
ではでは。わけししょうでした。さようなら。