ねえねえ、友達って大切ですか? あなたに友達って呼べる人がいますか?
衝撃の告白をします。
現在のわけししょう、友人、友達がいません。いま気が付きました。
幸せに生きたい、誰よりも楽しく暮らしたいわけししょうとしては、由々しき事態なのか。
友だちについて考察いたします。
友達があんまりいなかった
わけししょうの子どもの頃をちと思い出してみたところ。
友達っていたかなあ、って。交友関係についてです。
幼稚園の頃は、天真爛漫そのものだったわけししょう。今と全然おんなじだね。恐れを知らぬ若者だったし、今にみたいに眼も心もすさんでなかったしね((笑))。いろんな人と友達感覚で遊んでました。
小学校入学の前に際して、唱えてた
ともだち100人できるかな
というマントラ。ある精神科医の著作で指摘されてたのですが、これって明らかに残酷な無茶振りです。トラウマになりかねません。学校教育からは、とっとと引っ込めたほうがいいかも。
実際に小学生時代には、活発な人たちの仲良しグループには属せなかったですねえ。なんか、キラキラしている人たちと一緒にいるのは、すごくエネルギーが要るというか、気を遣ったり、しんどかった覚えがあります。そして、そんな連中に誘われたりすることもなかったような。好印象も持たれてなかったんだよね。背も小さいし、スポーツもできないし。生意気で、扱いにくい。小バカにされて、いじられてた方でしたね。成績はまあまあだったけど、とにかく勉強嫌いでした。当時から経済力と学力って正の相関性があって、クラス内ハイソにも入れなかったですね。
遊ぶにしても、誰かとグループを作りなさいっていう教師から命令も、悪く言うと残り者たちに混ざってた記憶もあります。教室を飛び出して遊びに行かない、おとなしく、人見知りだったり、元気がないような奴ら。もしくは明らかに人に馴染めないような子とかねえ。
一緒に遊んでくれる友達がいなくて、母親にワーワー言ったら、涙を流して励ましてくれた記憶もあるなあ。人との関わりに難しさを感じていたのかなあ。寂しがり屋ではあったと思います。今もね。
とは言え、幼馴染っていえるような友達は何人もいましたねえ。一緒に釣りに行ったり、いろんな体験を共にしました。これにはホントにありがたい存在でした。みんな元気かなあ。
東京に住んでた大学時代って、大学生が嫌いだった。なんでかって? やたら軽くて、変な愛想を振りまき、薄っぺらい。知性もないし、バカばっかりだった。そういう自分を棚に上げていたんでしょうが。友達っていえるのも片手で足りるくらいでしたねえ。付き合いは濃かったです。しょっちゅう泊りで飲み食いしたり、海外にも何回も行きました。でも、今はまったく音信さえない。
友だち付き合いって苦手かも。というか、比較的に友人でいる時間って短いよね。感覚的にですが。
社会に出ると、必要がないのか余裕がないのか、交友関係って希薄になっていったような。現時点でSNSで辛うじてつながっている幼馴染が2人くらいですねえ。「知り合いかも」って出てきたので、友達申請したのです。今となってはお互い生存確認って感じかな。
仕事関係でも、友達っていないですねえ。飲み屋も行かないので、飲み友達ってのもおりません。
結婚して家族ができれば、そちらが最優先になるのでありまして、それも当然の成り行きですね。
国際的な友だちは別ね
とは言え、これはわけししょうの真骨頂。
とある人の名言
「君と僕とは友達じゃろ?」
そう、友情とは友好の情。
これまで、いろいろとお世話になった外国の人がいました。
若い時分は中国での武術修行で、いろんな友情を育んだと思います。不自由が多い現地で、陽となり陰となり助けてもらいました。損得勘定が必要ない良好な人間関係はわけししょうの宝です。文化交流とかも、そうとうやりましたよ。
とはいえ、時限がある関係性ではあります。思い出としては最高なのですが、これから先に追加はできませんねえ。すでに亡くなった方も多く、思い出探しも簡単じゃないだろうなあ。
異文化との交流は言語の壁とかがあります。でもね、片言でのコミュニケーションでも成立したら楽しいよお。ぜひぜひ挑戦しましょう。愛媛の地でも機会が増えましたよ。
研ぎ澄ます男子力#0014語学力っていう記事もよろしければご覧ください。
修行を共にするのは友人ではない
日本で武術教室に通ってた頃、同年代の気が合う人とは楽しくやれた気がします。共通のテーマを持っているからね。一緒に中国に行ったり、共に夢を追っかけてたんだろうねえ。
当時、上野アメ横のエスニック食材店でアルバイトしていた時期がありまして。同じフロアーに鮮魚店があったんだけど、どんどん日本人向けでなくなってきまして。生きてるスッポンが1匹が3000円くらいで売ってまして。わけししょう史上、最も高い頻度でスッポンを食ってたのです。当然、武術仲間とね。ぜんぜん別の日の夕方、酔っぱらって寝てたら、誰かがドアをノックするのです。ちなみに住んでたアパートは池袋ね。眠気眼でドアを開けたら、武術仲間がニコニコしながら、提げたビニール袋をこちらに差し出すのです。そこには捌かれたスッポン。わざわざ上野まで電車で行って買ってきたんだと。いきなりの展開だけど、まあいいか。予告なくスッポン鍋を強制調理、そして近所の仲間を招集。酔いがさめないまま、宴に突入したのであります。懐かしいなあ。
わけししょう、常々申しております。武術って、相手を殺めることをも含めたコミュニケーション術です。なかなか伝わらないかもしれないんだけどね。
仲間と良好な人間関係を
自立もできてくれば、群れる必要もないし、愛想を振りまく必要も減ってくるし。もう、友人なんて要らねえや、って思い出した今日この頃なんですが。
わけししょうには友達はいません。でも、気が付きました。
仲間がいるじゃんか。それもかけがいのない。
定義としては、友達と違って、何らかの共通する目的や目標を共有しているのが仲間となります。つながる何かがあるってことです。言い換えると「同志」だね。関係ないけど、中国では見知らぬ人に話しかける際、「同志」って言うって習ったんです。共産党用語だろうねえ。今は使わないですが。
良好な人間関係があなたの幸せを構成しています。これは間違いありません。そのことに気付いた人は人生の勝利者です。
自分が一番に大事が前提ですよ。次に家族。そして、仲間が来ます。
わけししょうが考える「仲間」って、一目置くことができる人ですかね。「お! こいつは」的な。魅力を感じるともいえる。あと、つるんで心地良い人ですかねえ。わくわくするような。これは理屈じゃない。相性っていえるかもしれません。友情とか恋愛感情とは違うんですよねえ。
人生を照らす仲間ができたら
ウォーレン・バフェットという最強の投資家がいます。90歳を超えても、現役で最前線を疾走しています。彼はこう言ったそうです。そして、実践したのです。
「尊敬できる人と仕事をしなさい」
ここでいう仕事とは、ビジネスとか職業生活にとどまらないと拝します。
わけししょうは知っています。なにかを成し遂げるとき、必ず誰かが助けてくれます。それは運とか神とか福といってもいい。幸運は人が運んでくれるものだと思います。
表現すんのが難しいのですが、単に恩恵をもたらすことを期待するんじゃない。頂戴ちょうだい状態ではない。
最高の仲間とつるむってのは簡単ではありません。甘くありません。愛想だけでは仲間としてもらえません。自身を高めなければならないのです。これ大事。
お互いに認め合えること、いい意味で競うこと、そう、切磋琢磨が重要なのであります。
そして、敬意をはらうこと。その上でヨイショします。イメージとしては水滸伝ですかねえ。英雄たちの言動と振る舞い、戦(いくさ)での絆とか。
この平和な国では命を賭すような事態は考えられないかもしれません。でもね、わけししょうは武術家なのよ。仲間といえるみんなを怖がらせるつもりはありませんが、命を賭したレベルでも付き合う肚づもりでいます。
仲間になれたらいいね
誰とでも仲間になれるってことではないと思います。ステージというか、次元が違っていると仲間にはなりにく。分かりやすくいえば、話が合わないと仲間にはなれない。インスピレーションが合わないと仲間とはいいにく。これが友達と仲間の違いかなあ。
そんな仲間が増えたらいいなあ。友達は100人要らないけど、仲間が100人できたらいいなあ。
共に高め合える仲間を募集しています。そう、わけししょうを仲間と認めてくれる人をね。
そのためにわけししょうは自身のレベルを上げようと仲間力を上げようと日夜奮闘します。
君も仲間にならないか。一緒に面白い思いをしたいですね。わけししょうでした。ありがとう。