わけししょうといえども、その前提として、弟子であった訳です。
中国武術をやっております、わけししょうの師匠は中国人です。
なかなか奮闘が必要なシーンもあったんですよ。
「弟子」って日本語、中国語では「徒弟」っていいます。日本語にもあるけどね。
子どもというより、弟ってニュアンスか。まあ、慣用句なので気にしなくてもいいでしょうか。
そんなこんなで、わけ弟子(俺ね)のことを語ります。
師弟関係はお客様商売ではない
一般に参加できる講座・講習会はあくまでもお支払いを前提とした、サービス業の一様です。武術を習得するには、日本でも中国でも世界でも最もメジャーな方式です。
表演演武・競技、教養・健康法として、伝統的な昔日の制敵法として愛好されています。これはこれで全然OKです、というか基本的に武術を学ぶにはこれしかありません。まあ、習い事ですね。
教える人が偉そうだろうとなんだろうと、習う人はお客さんです。金銭的授受が成立すれば保たれます。金の切れ目が縁の切れ目ともいえるのですが。
弟子になるということは、単なるお客さんではなくなるということです。
で、師弟関係は伝承と密接な関係があります。というか、武芸の伝承システムの根幹となります。もっといえば、嫡子や血族ではない外伝を指すことが多いと思われます。
師弟関係によって武術修行が決する
日本人って書物を購読する国民性があると感じます。特に情報化以前は活字とテレビラジオが情報源でしたから。テレビラジオは受動的であり、取捨選択がやりにくい。という事情で、選択して書物を手に取り、欲しい情報を得るのでした。ネットないしね。
別の記事でも触れたように、わけししょうの前後世代は松田先生の洗礼を浴びています。善かれ悪かれ共で、です。
中国拳法(武術)の世界では、「学生と弟子の区別がある」ということが幾度となく述べられていて、我々は無条件に呑み込んだのです。
先の、お月謝で通うのが一般「学生」で、真の入門を果たした者が正式「弟子」であると。そして、弟子にならなければ、秘伝奥伝は学ぶことができないんだと。
そりゃあ、真に受けますよ。そおなんだ!って。中国で弟子入りを「拝師」といいます。
こうやって生まれたのが、正式弟子指向です。やるからには、ねえ。
かくして、正統な伝承者である著名な武術家の元へ馳せ参じた日本人も少なくなかったのです。そして、多くの学生ではない、弟子が多く誕生したのです。
拝師は入学就職結婚と同じ
わけししょう、「男子力」という切り口で、生きていくうえで人間に必要ではないかなあ、という要素を説いています。まあ、このサイトですけどね。簡単に言うと、人として女として男として身に付けたらいいんじゃないですか? という問いかけです。
その中で、結婚について展開しています。人類の存続には避けて通れないですからね。
世では結婚を「ゴール」と表現することがままあります。これは明らかに間違いです。そう、あくまでもスタートラインに立っただけの話です。そっから先が大事なわけで。
入学試験突破と就職における採用通知と同じです。それはそれですばらしいのですが、肝心なのはその後の活躍です。
武術の世界でも、ありがちです。「正式な弟子」というゴール。めでたしめでたし、とな。
自称他称を問わず、正式弟子がたくさんおります。そのこと自体は否定されることはないのですが、重要なのは、誰からどういう立場で何をどのくらいの期間を習ったか、ということになります。さらには裏付けとなる証人や書付(伝書)、文章・画像・動画などのエビデンスがあるか否か。
弟子の道とは
事実関係から申し上げますと、わけししょうは王映海の徒弟となりました。
その前段として、王映海と闘った日本人だったのですが。これについて別の機会に。
拝師式は王の自宅でおこないました。所要時間は10分くらいかなあ。中国には「叩頭」って作法があって、師に対して跪いて地面に頭を着けるのですが。それはおこなわず、三度の立礼に代えました。立ち合ったのは王仲連および李献瑞先生。
こっから先はわけししょうの弟子としての、思考言動の列挙です。これが正解ということではないことを了承ください。
主体性を発揮する
学校教育や習い事だと、受け身というか受動的になりがちです。ですが、弟子となればそうではありません。というか、ビジネスライクといってもいい。師匠に企画を提案して、了承してもらい、実行する。わけししょうの弟子入り後は、そうしてまいりました。
自ら考え自ら動く、とはいかなる場面においても求められる行動様式です。これで貴方の人生は勝利確定です。
弟子の道はまさにこれ。
武術の修行って、メチャクチャにコスパとタイパが悪い。金(礼金以外)と時間が湯水のように必要なのです。趣味としては魅力的だが、難易度も自由に設定できるだけに、山が深いというか沼にはまるというか。
しかも、習得能力って個人差があるし、素質も影響します。師匠が素晴らしくても、弟子も素晴らしくなる保証もないのです。
しかも、遠く離れた外国まで行って、言語も習慣も異なる人から、最も保守的といわれた戴式心意を修めるってんだから、生半可ではままならぬ。
とはいえ、武術は楽しいのです。ここでお知らせです。宣伝です。
師匠を引き出すのが弟子の醍醐味
まずは、テクニカルについて引く出そうね。 まずはこれをご覧ください。
おわかりいただけただろうか。
わけししょう自身、撮影された時点では、まだ認識が甘い。後から連続画像で視れば、いくつも得るべきポイントがあります。共有しましょうか。右に立つ王が左のわけに仕掛けます。
①距離を隔てて立ってます。相構えって、判ります? 相撲でいう相四つです。両者とも、左手と左足が前になっている状況です。
②上体はそのままで後ろ足を送って、間を詰めます。出す右足は外六方(つま先が外側を向く)で、すでに死角に入り身できています。
③間境を切って、脇を締めて顔面に突き付けて、肘の上(谷)に手を差し込んでいきます。歩を寄せているので、身体が陽(束身)のままです。このシーンではゆっくりした動きでありましたが、加速させると、所謂ぶちかましとなりますです。
④押し込み乗せるように腕を伸ばして上腕に摺り上げれば、相手を崩すことが容易になります。力みは要らない。掴まず握らず、相手を制することができる、柔(やわら)的な要素を持っています。
「着法」「招式」といわれるものです。単純にして巧妙な技法です。特に派手でもなんでもない、挿し手の動きではありますが、心意拳の真髄ですね。
師を反射的に崇め奉るのではありません。徒弟の振る舞いや考えが、門派の意地を受け継がせるのです。
ちなみに、このときは王からは何の解説も御託もありませんでした。受け取る側の技量が必要なのです。
師匠から認められるか
武術の醍醐味の一つとして、技術の伝授を通して、師匠からの承認や信頼の獲得することが挙げられます。その積み重ねが師弟の道といえます。
王と初めて会ったときに言われました。「私は学はないが、頭が悪いのではない」と。果たしてどういう意図なのか。後から考えると、方向性が垣間見えたような。王映海攻略のヒントです。
正式に弟子となって王と会うとき、そのときそのときのキーワードというか連呼するフレーズがあります。教授の場面でわけの言動に対して繰り返し言うのです。憶えているのは「北西(わけししょう)、脑子好」「咱们师弟关系」とかですねえ。もう、褒め殺しじゃないのかってくらい言ってくれました。弟子としての誉(ほまれ)ですね。
依存やおすがりでは、武術は難しい。いい意味で師匠は教えてくれません。わけししょうが東京練習会を企ててとき、後から耳に入った評判がありました。
「期待してたけど、教えてもらえなかった」的な。
事実でしょうが、すでにこういう指向では武術はモノにならないと思います。訊いてくれてたら答えたかもしれませんが、具体的なことは判りませんでしたし。
わけししょうには時間がない
ありがたいことに、戴魁公⇒王映海⇒わけししょうの系統に関心をもって時間や労力を費やしてくれている勢力が存在しています。
その想いに応えたいなあ、という欲求がフツフツ湧いてきたのであります。
誰しも与えられた共通の驚愕の事実があります。そう、人生は有限なのです。わけししょうも逃れられない、この世のルールなのです。悲しいけどこれ人生なのよね
とはいえ、無抵抗でやられるわけにはまいりません。これこそが武術家の意地なのです。
ということで、王映海からの一次情報の共有を提案するものであります。よろしくお願いします。
わけししょうでした。