8050問題ってご存じでしょうか。80とは親の年齢で、50は子どもの年齢です。まあ、親が80歳代ならば、だいたい子は50歳くらい、というネーミングです。
つまり、子が50歳付近だと親は平均寿命に近づいている状況という、至極当たり前のことではあります。
子のほうに、何らかの原因があって、生活していくのに親の助けが必要であれば、親亡き後に困難を伴ってしまう可能性がある、という問題です。
親の立場からすれば、本当に心配至極といったところでしょう。とは言え、子より親が先に逝ってしまうのは世の摂理です。草葉の陰から、子の幸せを祈りたい気持ちになるでしょう。
わけししょうも子の親です。そういう気持ちは分からなくもない。でも、ちょっと違うスタンスを持っています。親は親の人生を生き、子は子の人生を生きていくだけ、ただそれだけだと思っています。「親は無くとも子は育つ」です。
わけししょう書評vol.1 「〈自立〉の心理学」:講談社新書
ここで書評を展開したいと思います。わけししょう、どちらかというと書作物からの引用って、あんまりしません。今回はテーマが「自立」ですので、わけししょう文庫(?)から1冊を取り上げようと思います。
〈自立〉の心理学との出会い
わけししょうが高校2年生か3年生のときに手にした本です。
その頃の学級担任が生徒に向かって言いました。
「新書ってのがあるので、読んでみたら?」
小学生の頃から、わけししょうは本屋の申し子というくらいに書店に居座ることが多かったです。当時は街の本屋さんがたくさんありました。小学生高学年のとき、松山市山越の実家から自転車に乗って20分以上かけて来店していたお店がありました。大学のすぐ近くだからか、多くの人が店内にあふれてました。なぜか、本屋なのにジュークボックスが置いてありまして。10円で1曲聴けるのです。すでに店内滞留OKな本屋さんだったのです。自分な好きな音を見知らぬ人たちと共有するという、けっこうカッコいい。そんなビジネスモデルもできるんじゃないかなあ。
本屋のハシゴも普通でした。なのに、新書コーナーってほどんど見ていませんでした。
時は流れ高校生になって、担任の一言で新書コーナーに張り付くようになりました。専門家の論が手頃に入手できる、といっても分厚過ぎないのがいい。その頃の新書は岩波・中公・講談社・ブルーバックスくらいしかなくて、今ほどブランドがありませんでした。
その中で、高校生ながらに手許に置いてたのが本書です。わけししょうの座右の書といっていい。
実はそうとう以前に、誰かに贈呈してしまって、手元にありませんでした。なんかの拍子にフッと欲しくなって、古本を取り寄せました。
そう、20年くらいは読むことなく時間が過ぎたのです。その頃のわけししょうと今のわけししょう、なにか違う感覚があるのではないか、ここで披露するものであります。
表紙イラストにだまされるな! この本は親向けだ
この本は、親子/家族関係をメインに子の自立について説いています。
わけししょう、高校生の頃は、子の立場から読んで刺激を受けたわけです。まさに親からの自立ってものを考えるようになり、その後の行動や人生の指針となったと思います。
わけししょう、自立の達人であることを宣言します。
時間が流れて親の立場となって読んでみると、違った刺激があります。というか、珠玉の多くに驚きさえあります。
この本は親向けに書かれたんだなあと。わけししょう、すでに子育てが終盤にさしかかりつつあります。その子育てがよかったのか、の判断ができる内容となっています。
子育て中の親御さん、ぜひとも手にしてください。目から鱗が落ちるかもしれません。救われるかもしれません。
具体的なケースを豊富に取り上げてあります。いくつか引用しますよ。()内はわけししょうが付けた注釈です。ご了承ください。
愛情とは相手(子ども)の味方になってやること
人間というものは、ひとりでも味方がいると思う限り、人生への勇気が湧き出てくるものである。
(親自身も、その)親のおかげで今日がある
自分のことを考えたら、そんな大きな顔をして、自分の子どもにああだこうだといえないと思う。
あやまる(謝る)のは父母のほうじゃないでしょうか
(子どもが家出した親に対して)『家出でもしないことには処理できなほどに心を追いつめてしまってすまんことをした。親にもいえずひとりでずいぶん悩んだんだことだろう』と、親がまずいうべきだったんじゃないのですか
(教授などの知識人と)親は違う。知識を問われることは少ない、人間を問われる
親になるということは、人間としてどの程度の”出来”かを、たえず問われることになのである。
自分の考えにまちがいはない、自分には愛がある、と思い込むからいけない
(大学入学祝いに)背広(フォーマルスーツ)をおやじが勝手に買ってきて、「着ろ!」といったそうである。おやじが勝手に買ってきて「着ろ!」とは何事か、口論がもとで(息子に)殴られるはめになったのだが、背広を買ってやって殴られるなんて、こんなおかしな話はないと、父親はいきまいている。
私にいわせれば、なぜよそ(他所)の父親に「お宅では子どもさんの入学祝いにどんなことをしましたか」ときかなかったのか、といいたいのである。知恵が必要である。その知恵は人から耳学問すればよいのである。
勉強することが大事ってことを言い換えた
わけししょうの学びについて語ります。
筆者は「耳学問」という表現を使っています。実質は「勉強」しなさい、ということなんでしょうが、このワードの響きがすでに親子どちらにもNGなんですよ、という気遣いをしていると観ます。
学校教育科目を「勉強しなさい」と言い放つのは、子ども本人のためだと押し付ける、勉強ができない親の残念な所業だと考えます。わけ一家では、夫婦間でこんな会話が何度も繰り広げられました。ごめん、ディスるわけじゃないんだよ。
「勉強しなさい」っていう貴方は、子どもの頃、親の言う通りに勉強しましたか? 勉強ができた?
間違いなく、してないしできなかったよね。それが悪いことじゃないよ。だから、子どもが勉強しなくても、勉強ができなくてもいい。本質はそこにはない。だから、国分先生は勉強ではなくて「学問」って表現にしたんでしょうね。
わけししょうの、「学問」観を申し上げます。勉強ってのは問いに対する答えを求めるのです。でもね、学問は問いを学ぶのです。字面のまんまです。何が問題なのか?って。
これって、科学者や研究者、発明家や起業家の根本にして極意ですよね。武術に関しても同じ。問題意識って、大事なんです。
報連相の重要性
さらには、誰かに訊きなさい、という相談/カウンセリングの奨めでもあります。
残念ながら、この社会では人とのつながりが、大きな効果をもたらすのです。
報告・連絡・相談は仕事では基本中の基本です。
よくいらっしゃいます。コミュニケーションが苦手っていう手合いが。学校や職場、家庭でもね。わけししょうでも面倒くさい人間関係はうざいけど、教えを請うには、人との関わりは避けられない。特に大きな何かを成し遂げたい、爆発的にことを進展させたいとか、ならばね。
武術の話です。武術家とは門派の正統な伝承を受けて初めて名乗ることができます。本や動画・できる人との交流や教室で学ぶことができますが、原則としては最終的に伝承者から認められる必要があるのです。
プロローグだけで、こんだけ凄い
実は本編に入る前段です。すでに心に沁みますねえ。いかがですか?
高校生のわけししょう、どんな思いで読んでたんでしょうか。記憶に残ってはいません。
しかし、とにかく強烈なインパクトを受けたことだけは間違いなかったのです。すげえ人がいるんだなあと。こんな人からこんなことを学んでみたいなあと思ったのでした。
しかし、その頃の国分先生は千葉の理系大学で教鞭を取っており、ド文系のわけししょうは門を叩くことができませんでした。というか自分で道を閉ざしてしまいました。
いま思えば、師ベンジャミン・グレアムに断られたにもかかわらず、手紙で門を叩き続けたウォーレン・バフェット(存命する世界一の投資家)のごとく、手紙で「国分先生の元で学びたい」と送ることもできました。
ホントにやって失敗した後悔よりも、やらなかった後悔はキツい。おっさんになってもまだまだ学びがあるわけししょうなのです。気づきがある生き方って、いいですよ。なんか進化している感もあります。
さらに思えば、わけししょうの師である王映海との始まりも、実は送った1通の手紙が始まりだったのです。そのことについては別の機会を設けたいと思います。
まとめ
わけししょう、初の書評はこんな感じでした。いかがだったでしょうか?
今回、改めて認識したことなどを列挙します。
★書物は学びのソースとしては最強。でも、座右の書といえる本にはなかなか出逢えない。
★現代はネットにより、作者とつながるのもハードルが低い。利用しない手はない。
★自立は社会的生き物である人間の永遠のテーマ。多くの人が、より良く生きるための処方箋。
★勉強は楽しくない。学問は楽しい。
★人生の転機となる言葉はとても短い。
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それでは。わけししょうでした。