このサイトは「男子力」と称する、人(男女問わず)が豊かに生きていくために身につけたらイイんじゃない? という様々な「ちから」を提案するものであります。
我々は、先天的に持っている野性と後天的に身につける理性を上手くコントロールしていく必要があると思います。
そうできれば、君の人生はイケテるようになるさ……………………
イケるとは…………………………… 行ける、生ける、活ける ともいえる。
さらにいえば、「逝ける」ことにまつわる力も必要なのさ。自分じゃないよ、送る側についてのことよ。残念ながら、君が愛する親は君より先にあの世にいくことを望んでいるんだよ。
なんてスカてたら、こうなりました。
望まなくても死別は発生する
言い方を換えれば、母親が逝去したということです。
前段として6カ月の入院生活と1カ月の特別養護老人ホームでの生活を経てではありました。
夜中に電話で呼び出されたのですが、心臓に一撃を食らったようで、静かな最期だったようです。
夜勤の介護員が見回りをしていて、やや様子がおかしいと気づき、意識がないことと呼吸が止まっていることを確認。かくしてお呼びがかかったのです。
当然ながら、酒をかっ喰らって熟睡していたわけししょうは、事態が事態なので酒気おびで運転してもよかったのですが、ここは妹にお願いして、約1時間の時間をかけて母の元へ向かったのです。
父親の逝去から30年近く経っており、わけししょうの状況も経験値も当時とは全く違うのです。とは言え、来るべきものが来たな、と。みなさんもこういう事態に備える必要があるんじゃないの。
最低限の覚悟はしてたかな
たいへん恐縮ですが、わけししょうは実はポジティブの極りみたいな人なのです。
ここ数年に至っては
「こんなに幸せでいいのかなあ」
という人生を送っていました。まあ、些細なごたごたはありましたが、生活の大部分が悪くなかったのです。のんきなモンだね。
まあ、そんな時期にも終わりが来る、というか大事(おおごと)が控えてるんだろうなあ、と心の片隅に想っていました。それがなにかは判らないんだけど。
てなときに、わけ妹から緊急lineが来たのです。
「兄ちゃん、もう限界………………」
具体的には以下の記事をご覧ください。
かくして、以前の記事にも上げたように母との最期が繰り広げられたのであります。
きついこともポジティブマインドで乗り切れ
楽観的にもほどがあると、周りが呆れるほどのわけししょうです。知人に母親の容態(救急搬送されて入院)なんかを伝えた後、わけししょうは宣いました。
「なんかワクワクしてきたぞ」
「なんでそこまで言えるんですか?」
おそらく復活することがないであろう、母親の容態をツラいツラいと涙ぐむ妹を励ました際にも、「どんだけ前向きなん?」と言われてしまいました。
7割はマジで、3割は自分に言い聞かせです。
そう、自らを奮い立たせることも大切なのです。
自分応援団って大事かなあ。みなさんも自身に自信を。
わけししょうが情報発信するのも、武術を通して自分を周りの人を鼓舞することができる、そこに根拠があるのです。みんなの太鼓持ちになりたいわ。
葬儀ってのは残された者のためにやるんだよ
さて、夜中にほろ酔いのわけししょうが施設に到着。まずは葬儀の手配です。まさに「縁起でもない」の発動です。
わけ父の葬儀はわけ母の意向で、やや盛大にやりました。なんやかんやで600人は来たはずです。
元気な折り、わけ母は「棺桶に伊勢海老を入れてほしい」という謎な申出を幾度となく言ってました。今、思えば買ってあげて食べさせてあげればよかったなあ。死ぬときは持っていけないものね。
しかし、晩年というか弱ってきた頃には「葬式も最低限で、なにも要らない」的なことを言っておりました。
コロナ感染症の影響はいろんなところに出ていますが、冠婚葬祭などのセレモニーの縮小に拍車をかけることになったと思います。「家族葬」っていう言葉も広がり、こじんまりと送ることがトレンドです。
スマホでさっと検索してたのですが、この手の情報はなかなか思うように扱えないです。ネット上でこれでもか、と営業アドセンスが流れてきます。しかも真夜中、知り合いの葬儀屋もいたんですが、疎遠になっているので、選択肢からは外すと。
このために建ったのかも? 近所の葬祭ホール
これも些細な備えなんですが、数カ月前に近所に家族葬専門を謳う葬祭ホールができたことを憶えており、そちらに連絡してみることに。なんとなく、母の葬儀はここがいいかも、なんて思ってました。なので、そちらのサイトにアクセスして、電話連絡。寝台車をお願いして、施設までお迎え、ホントに御迎えに来てもらいました。
これが大正解。わけししょう宅から車で5分くらいの距離でしたが、何かと便利。物をすぐに取りに行けるし、人員の交代も簡単。わけ母宅のすぐ近くに大型ディスカウントショップであるダイレックス堀江店がありまして、物資の調達も楽。
けっきょく、最速でも必要なので、2晩ほど部屋を借りることに。8畳くらいの部屋は真新しく、清潔な旅館といった風情です、お棺と遺体がある以外は。
布団も2組用意してもらい、ちょうどいい距離感で家族最後の時間を共有します。
一晩中、わけ妹が母に向かっていろいろ語り掛けています。兄には解らない二人の繋がりをうかがえます。こういう時間が大事なんですよね。親戚やご近所さんが来るよりも素晴らしいと思いました。
家族だけの葬式って形式にしたんですが、母に近しい人には集まってもらいました。葬式の本質って、亡くなった人のためにやるのではなく、残された者どものためにやることだと思っています。
死に顔というか、穏やかな表情に見える亡骸って、残された者に平穏をもたらすよねえ。これが最後の仕事っていうか、メッセージだと思う。ししょう母の表情は観た者すべてが口にするほど、いい感じでしたよ。いろいろあったけど、いい人生だったことにできる、ような。
まあ、オカルトめいた話なんですけど。わけ母って、ほぼほぼ白髪なんですが、これがなんと!
安置しているあいだに、髪がどんどん黒くなっていったんです。いや、ホント。嘘じゃないって。
ついつい写真に撮ってしまいました。
かくして、人焼き場へ。家族だけがいきました。わけ一族以外、誰もいないので、すごく静か。コンビニでおにぎりやらサンドイッチを買い込み、持ち込み。パクパク食べて、焼き上がり? を待ちます。お骨を拾い、完了。
死との付き合いは永遠のテーマかな
動物の母親が死んだ子どもの周りをウロウロしているシーンって沁みますよね。当然ながら、どうすることもできなくて最後には離れていく。彼女は我が子の死を理解できるのか?
子ども心にはかわいそうと思うし、親心には他人事ではないと思うでしょ。
自分の死も大事なんだけど、周りの死も大事。そのことをわけししょうは伝えたいのです。
死に別れもコミュニケーションだと
わけししょう、こんなコンテンツもあげてます。
まあ、ちょっとやそっとでは言い切れないというか、壮大なテーマでもあるので、ちょこちょこ言い足していきます。
コミュニケーションの根幹として、当然ながら相手との言動のやりとりが最重要ですが、その前提として、その相手に対してどう臨むか? どう向き合うか?
感情や打算、こうあってほしいという願望やとことん付き合いたいっていう想い。もちろん、ポジティブなものだけじゃなくて、とっととくたばれ! とか、なるべく避けたい、なんてものあります。湧き上がる思いプラス、主体的に選択・認識することが大事です。
亡くなった方に対しても同じです。
葬儀というセレモニー/イニシエーションは、そのために設けられている。と言ってもいい。
いい距離感を生前に保つのも大事かも
仲がいい、心から愛してる、離れられない、依存しているかも、って生きてるときの関係性が深いと、死別した後がこわい。というか、そうとうな寂しさに苛まされそう。自分もそうだし、残された者があんまりそうなってほしくない。
あなたは泣きながら生まれてきたけど、周りの人はみんな笑っていた。あなたが死ぬときは、あなたは笑っていて、周りがみんな泣いていた…………………………
てのは本当にいい感じでしょうけどね。
逆に死んでくれてよかった、というケースもあります。悪魔のささやきではありません。そのおかげで生き地獄からの脱出、「死んだら、そいつのことを悪く言う奴はいない」ということです。
わけししょう、こんなことを考えるようになりました。
「適度な距離感って親密な人間関係で大事なんじゃないか?」
てな。
至極、当然のことですが、愛がゆえにきつくなってしまう関係ってのも少なくない。
人とは生き別れか死に別れしかない。
若きわけししょうが聞かされた言葉です。
けっきょくはそうなっちゃうことを前提にしておく。
最悪を想定して、理想を追いかける。言い方を換えると「リスクを呑む」と。
もう、わけししょうの親はおりません。そう、次はわけししょうが送られる番なのです。でも、これって素敵なことなんだよね。
さあさあ、みなさん。
「しっかりいい仕事をした日には安らかな眠りが訪れ、いい人生には健やかな死が訪れる」
んだそうです。目指したいところですよね。
わけししょうに訊いて
生き方も大事、死に方も大事。
我々は死に突き進むという前提で楽しく生きていくのです。
なんか訊いて。全力でお答えします。面白い話ができればいいなあ。
わけししょうでした。ありがとう。